私の祖母
関東大震災で焼け出され上野からベビーカーにお米と水や 子供を背中にしょって現在の地で商売を始めたそうだっ 多くの人の命も救ったそうだっお米や水を分けて
2階建ての木造、50坪かなぁ 店舗付き木造建て、1階に台所、お風呂、トイレ、ボットンだっかなぁ?
運動会の時は祖母の手作り弁当を囲んで父と母と妹達と仲良く食べる 決まって、クッピーラムネの大きな箱におにぎり、暑い日に腐らないように酢飯おにぎりときゅうりの糠漬けまんま1本 いい感じの日だとウィンナーや卵は茹で卵などであったが素朴だが 祖母の工夫されたお弁当は忘れられない味ーしかもおにぎりの具は梅干し
母が忙しい時はたまに祖母がおやつをつくってくれた。 大抵は夏の寒天豆入りだったりあんみつではなくバットに固めて包丁で切る黒蜜で食べたかどうかは記憶がさだかではないのが残念
図工などで今みたいにダイソーなど無かったので文房具屋さんが閉店してから、あれが足りないとかコレがないなんて大騒ぎした私にどこからか 閉まってあったリボンだの 包装紙などをいっはい溜めてあって無いものはあったかもしれないが沢山頂き物の箱や缶などを捨てずに大事に保管する祖母でした
82歳のある日お風呂場でお風呂の椅子を台に乗って滑って打ち所が悪く入院し何日か目に亡くなる。昔のお風呂場ってタイルで滑るし危険だったのよ〜
嫁より実の子供を大事にするが祖母を看取ったのは結果的に母でした